『ノクターナル・アニマルズ』でみる男と女の幸せのあり方
映画『ノクターナル・アニマルズ』は、2016年に製作された、トム・フォード監督による作品だ。
あらすじ
スーザンは夫とともに経済的には恵まれながらも心は満たされない生活を送っていた。 ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワードから、彼が書いた小説「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」が送られてくる。彼女に捧げられたその小説は暴力的で衝撃的な内容だった。才能のなさや精神的弱さを軽蔑していたはずの元夫の送ってきた小説の中に、それまで触れたことのない非凡な才能を読み取り、再会を望むようになるスーザン。 彼はなぜ小説を送ってきたのか。それはまだ残る愛なのか、それとも復讐なのか――。(filmarksより)
この映画は、20年前まで婚姻関係にあったエドワードという男とスーザンという女の二人の話である。
エドワードという男が、元妻であるスーザンに対して捧げた小説を、
彼女の視点から読み進めていくというのが話の基本的な本筋だ。
エドワード役はジェイク・ギレンホールが演じた。
そしてその元妻であるスーザン役はエイミー・アダムスが演じた。
圧巻の演技
この二人の演技は圧巻であった。
ジェイク・ギレンホールの、過去に元妻に裏切られた悲しみを表現する姿や、それでも彼女のことを愛する姿勢は、圧巻だった。
またエイミー・アダムスも、初めは巨万の富を築き、それでも孤独を感じる女性、というだけの印象だったのが、
話が進むにつれて野獣のような狂気を帯びた内面が見え隠れしてくるのも非常に興味深かった。
主演のふたり以外の役者たちも素晴らしかった。
警官役を演じたマイケル・シャノンは、アカデミー賞にて、助演男優賞にノミネートされている。
また、これも小説内で犯罪を起こした男の役を演じたアーロン・テイラー=ジョンソンは、
ゴールデングローブにて助演男優賞を受賞している。
この二人も、狂気と復讐に飢える姿を見事に演じていた。
幸せとはなんなのか
今作では、元夫を裏切るスーザンと、それに対する復讐(?)を小説で行うエドワードの話であるが、
結局はお互いが不幸な形となっている。
スーザンは、自身の才覚で莫大な富を築いたものの満足できず、
裏切った元夫のことを思う悶々とした日々を送っている。
彼女は、自分にとって何が自分を幸せにするのかがはっきりしていないがために
エドワードからのこのような復讐を受けたのだと思う。
エドワードも、裏切られた元妻に20年間も固執している時点で幸せになれるはずがない。
まさに非モテの所業と言えるだろう。
彼のスーザンを愛する気持ちはわからないでもないが、もっと広く恋愛していればこのような「復讐」をすることにはならなかっただろうし、
恋愛工学的にもそのような考えや行動はミスと言えるだろう。
ただそれでも、エドワードがスーザンとの別れ際で言った、
「誰かを愛したら努力すべきだ」
という言葉は、この映画のなかで一番心に残るものだった。
幸せの追求は、答えのない道を歩いていくものなのかもしれない。
『野火』 感想と考察
映画『野火』は、2014年に製作された、塚本晋也監督による作品だ。
あらすじ
第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。 日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は追い出され、ふたたび戻った部隊からも入隊を拒否される。そして原野を彷徨うことになる。空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものとは・・・
(filmarksより)
この作品は、太平洋戦争時のフィリピンを舞台に、そこで生死をさまよう日本兵たちを描いたものだ。
主人公である田村一等兵は塚本晋也監督自身が演じており、彼を中心にストーリーが進む。
カニバリズムによって狂人と化す日本兵たち
この作品では、人食(カニバリズム)が一つのテーマとなっており、
実際に日本兵同士が、味方の死体を焼き(または生のまま)食べて生きながらえようとするシーンがたびたび登場する。
味方を殺して食人するシーンは、グロいのは当然である一方で、
人を食べることで日本兵たちの精神状態がおかしくなり、狂人と化していく姿は目を覆いたくなる。
また、これは実際に行われたことでもあり、それは映画の舞台であるフィリピンで起きている。
ちなみに、スタンリー・キューブリック監督作品である『シャイニング』でも、カニバリズムのワードが出てきており、
人を狂人と化すものの象徴とされている。
美しい自然と醜い人間との対比
この作品は低予算ながらも、実際にフィリピンを舞台に撮影されている。
それだけあって、自然の景色はとても美しく、彩度の高く見せることでよりリアルに映されていた。
一方で、自然に囲まれた地で、人間たちが、しかも味方同士で殺し合いをしていく姿は、残酷でありながら非常に滑稽でもある。
その皮肉さをフィリピンの美しい自然がより際立たせていた。
リリーフランキーの安定した素晴らしい演技
田村一等兵と同じ部隊に所属する安田を演じたリリーフランキーの演技は、相変わらず素晴らしかった。
あの、「飄々とした演技」は、彼の代名詞だ。
リリー・フランキーの演技力がやばい!54歳にして独身を貫く多彩俳優の魅力まとめ【出演映画、名言集】 | ciatr[シアター]
リリーフランキー出しとけば、生々しく、人間味溢れた世界観が一気に仕上がる感は絶対にある。
「野火」とは
この映画のタイトルである、「野火」とは何を意味しているのだろうか。
僕は、この作品を通して象徴的なものが「野に焼ける火」だからだと思う。
敵の爆弾を被弾した時に燃える火、芋を湯がすための火、そして人間の肉を食すために燃える火。
この「火」の描写はラストシーンの主人公が帰国した際に目に映る「火」を見た際にトラウマを感じるように身体を震わせるシーンからも、
兵士たちにとって「火」は戦争を象徴するものとして位置づけられているのだろう。
『ディパーテッド』は、見事なキャストと、監督の素晴らしい演出が光る映画だ。
映画『ディパーテッド』は、2006年に製作された、マーティン・スコセッシ監督による作品だ。
マーティン・スコセッシ監督は、言わずと知れた名監督だ。
過去に、『タクシードライバー』や『ウルフオブウォールストリート』を製作しており、
オスカー賞を含める数々の賞を獲得している。
そんな彼がこの作品で主要キャラとして起用したのは、
の3人だ。
どう見てもヤバい作品に間違いないでしょ。
と思わせる超豪華かつ、圧倒的な実力を兼ね備えているキャスト陣だ。
この作品のストーリーとしては、
ギャングのマフィア組織のボスであるフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)がスパイとして警察に送り込んだ、コリン・サリバン(マット・デイモン)と、
ギャングに潜入する警官のビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)との戦いを描いた作品だ。
この映画は、『インファナル・アフェア』という台湾映画のリメイク版とのこと。
そんなの知らんわ。
って映画見た後に調べてたらその情報を見つけました。
この原作版もめっちゃ面白い作品だったらごめんなさい。
ともかく、『ディパーテッド』。
文句なしに面白かった。
演技が素晴らしい
ジャック・ニコルソンの文字通りの怪演。
狂気に満ちた演技は、『シャイニング』での彼の演技を思わせるものがあった。
そして、主演を務めたレオナルド・ディカプリオとマット・デイモン。
二人ともスパイとして活動する役だ。
「優等生っぽい見た目をして、正体はマフィアの人間」という役のマット・デイモン
「やんちゃで純真な一方で、家族関係の問題を過去に抱える警官」という役のレオナルド・ディカプリオ。
はまり役でしかなかった。
ここのキャストのセンスも、スコセッシ監督の手腕が光っている。
大胆なカット
退屈な映画は、だいたい一つのシーンが無駄に長くて、
このシーンに意味はないんじゃないかと興味が削がれることがある。
しかし、この作品のカットは大胆で、一気に時間を進めることで、
年単位での時系列の流れでも、常にテンポを持った展開を作り上げていた。
大胆なカットは賛否が分かれそうな使われ方のようにも感じたが、
僕はこれほどまでの大胆なカットをする監督のセンスにすごさを感じた。
音楽を「切る」演出
この映画では、バラエティあふれる音楽が使用されている。暗いトーンの楽曲もあれば、ハイテンポな楽曲もあった。
音楽そのものも素晴らしかったが、
この音楽を場面の切り替えのタイミングで「切る」演出が素晴らしかった。
ハイテンポな音楽が流れているところで、
場面や映す人の切り替えをする時に音楽を切ることで、
映画全体に緊張感が生まれ、その場のリアルな雰囲気が見事に表現されていた。
また、音楽が切れる前とあとで、その場の空気感を対比的に表現しているように思った。
銃撃戦での、一瞬の停止
この演出も素晴らしかった。
映画後半では、警察側とマフィア側で銃撃戦が行われるシーンがある。
この銃撃戦で、人が撃たれる時に、
画面が一瞬止まるという演出があった。
これはまさに『タクシードライバー』での最後の銃撃戦の演出と全く同じであった。
撃たれる瞬間を写真のように切り取ることで、よりその瞬間を人々に印象付けていることがわかる。
この作品がとても面白かっただけに、原作版であるインファナル・アフェアも一度鑑賞してみようと思う。
月30記事を目標に書いていくということについて。
毎日1記事書くことは、今の僕にとって頑張れば行けそうかなというレベル感だ。
これまでは、映画を観て
その感想を書いていくというブログを書いてきたけれど、
毎日映画1本観て、1記事書く
このサイクルって、なかなかきついよなと当たり前なことを思ってしまった。
映画1本観るのに2時間、記事を書くのに1時間前後。
合計3時間は毎日ねん出しなくてはならず、正直毎日やり続けるのは不可能だ。
ただ、1か月に30記事は書きたいなと思ったりもする。
その理由は、この作業を習慣化して、
ふとした時にイイことを書けるようになりたいからだ。
誰かに対して、何かためになることを書くことって、なかなかハードルが高い。
まず、習慣化することも大変な作業だ。
毎日早起きするのも、読書するのも、始めるときは多少なりともストレスがかかる。
でも僕は高校時代に、早起きと読書をがんばって毎日し続けることで、
それ自体に苦を感じなくった。
早起きが習慣化されれば、前日の夜の過ごし方も変わってくるし、
読書は毎日続けていれば、しっかりと自分の身になっていくものだ。
ブログも毎日書いていけば、文章の質が上がったりもっとイイことが言えるようになったり、ブログ自体もより多くの人に読まれる可能性も増えていくだろう。
今月30記事を目標にしたのは、広瀬(@late_hirose)の記事を見て、僕も頑張ろうと思ったからだ。
5ヶ月連続で30記事を投稿できたので、ブログを継続するコツについて振り返る - いつまで田舎にいるの?
なので、頑張ります。
『グッド・タイム』は、何が「グッド・タイム」だったのか。その意味について考える。
映画『グッド・タイム』は、2017年に製作された、ペニー・サフディ、ジョシュア・サフディ兄弟監督による作品だ。
あらすじ
ニューヨークの最下層で生きるコニーと弟ニック。2人は銀行強盗をしようとするが、途中で弟が捕まり投獄されてしまう。弟は獄中でいじめられ、暴れて病院へ送られることに。それを聞いたコニーは病院へ忍び込み、なんとか弟を取り返そうとするが---。
(filmarksより)
この作品は、貧乏な暮らしをしている兄コニーと、知的障害を抱える弟ニックが話の主人公だ。
コニーの恋人のコリー。
そして、コニーが弟と間違えて救ってしまったレイという男
ここら辺が中心となってストーリーが進む。
ロバート・パティンソンの素晴らしい演技
ロバート・パティンソンといえば、ハリーポッターでのセドリック・ディゴリー役が有名だ。
そんな彼の演技は、素晴らしかった。
ハリーポッターの時の優等生感溢れるキャラとは打って変わり、今回の役は、ニューヨークの最下層で生きる貧乏なコニー役を演じた。
まさに迫真の演技だと言っていいと思う。
強盗後の、警察に追い詰められている時の彼の表情は凄まじい。
一方で、弟のニックを愛する兄としての優しさも同時に見られ、
その両者のバランスが見事に表現されていた。
独特な撮影技法
次に素晴らしかったのは、撮影技法だった。
- 手持ちカメラでの接写
- 客観して大きくズームアウト
この2つを映画前半と後半で見事に使いわけていた。
まず手持ちカメラでの接写の多い前半シーン。
あえて手持ちカメラで撮影することで、ズームも相まって、手ブレが発生することで
コニーとニックの動揺や緊張感を演出していた。
次に客観したズームアウトを多用した後半シーン。
これは、動揺しているコニーたちを、実際に警察が追っていることを見せるために用いたと思う。
この作品のようなクライムサスペンスの展開をよりリアルなスピード感で味わえるような画面撮りであった。
「グッド・タイム」の意味
作品を通して、コニー・ニック兄弟が犯罪を起こし、彼らが逮捕されていく様を映しとっており、観ている僕らからして、「グッドタイム」であるようには決して思えない。
また、ニックと間違えて病院から連れ出されたレイという男も、
最後にはビルから落ちて死んでしまい、
恋人のコリーもクレジットカードを止められ、コニーとの関係が破綻しかけるように、彼らを取り巻く周囲の人々も不運な結末に終わっている。
一方で、コニーは映画を通して、障害者としてではなく、普通の人間として扱われ、表現されている。
兄と一緒に強盗をしたり(覆面が同じ)、普通の犯罪者が収容される留置所に入れられたり。
ただ、エンドロール内での最後のシーンでは、障害者向けの施設で生活するシーンが映され、
そのセラピーの中で、「家族に問題がある人」という質問に反応している。
ここから、コニーにとって「弟を普通の弟として生活させてあげたい」という願いを叶えた意味でもグッドタイムであって、
ニックにとって果たして本当にグッドタイムであったかはわからないということだ。
おそらく違うだろう。
つまり、コニーにとってみたこの映画が、グッドタイムであったということなのだと僕は思う。
『灼熱の魂』に見る、母親の無償の愛情。
映画『灼熱の魂』は、2010年に製作された、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による作品だ。
あらすじ
それはあまりにも突然で奇妙な出来事だった。双子姉弟ジャンヌとシモンの母親ナワルが、ある日プールサイドで原因不明の放心状態に陥り、息絶えたのだ。さらに姉弟を驚かせたのは、ナワルを長年秘書として雇っていた公証人のルベルが読み上げた遺言だった。ルベルはナワルから預かっていた二通の手紙を差し出す。それは姉弟の父親、兄それぞれに宛てられたもので、今どこにいるのか分からない彼らを捜し、その手紙を渡す事が、母の遺言だった。しかし兄の存在など初耳で、父はとうの昔に死んだと思い込んでいた姉弟は困惑を隠せない。シモンは母の遺言を「イカれてる!」と吐き捨てるが、ジャンヌは遺言の真意を知る為に、母の祖国を訪ねる事を決意する。いったいその手紙には何が記されているのか?そして母が命を賭して、姉弟に伝えたかった真実とは…。
(filmarksより )
ネタバレ感想です。
衝撃的な作品だった。
このストーリーは、ナワル・マルワンという女性と、その家族たちの隠された秘密を描いたものだ。
ナワルには、双子の息子と娘がいる。
そして、彼女の残した遺書から、生前語られることのなかった父と兄の存在を二人に告げられる。
母親の過去を辿り、双子の二人が父と兄を探すのがこの話だ。
母親の過ごした場所に訪れ、現地の人と話していくうちに、母親の秘密を知ることになる。
母親のナワルが、キリスト教右派の幹部を暗殺したこと、15年間も投獄され、レイプされ続けていたこと。
そして、レイプされた相手こそが、ナワルが探し続けていた息子であったこと。
つまり、双子の姉弟は、ナワルの息子とナワルの間から産まれたこと。。。
もう、「衝撃が走る」というか、衝撃が上からのしかかって、そのまま押しつぶされていくような感覚に陥った。
あらゆる人生の断片がパズルのピースのように映され、それが一致した時に全ての残酷な真実が目の前に現れる。
まさに神がかった脚本だと言える。ドゥニ・ヴィルヌーヴは本当に天才だと思う。
はじめは、「身元不明の父と兄が二人存在しており、彼らを探し手紙を渡す」という名目のもとストーリーは進んでいくが、
最後には、「父親としてのあなた、そして彼らの兄である私の息子としてのあなた」という同一人物に対しての、愛と憎しみの手紙だということが判明する。
監禁・レイプされ、孕ませられた悪人への憎しみと、それでも確かにある息子への無償の愛。
どんな過去があろうと、3人の子供達は、かけがえのないものだということ。
母親の無償の愛。すごい分かるし、これに自分を含める子供達が支えられているとって本当に多いと思う。
何も言わずとも、いつでも応援してくれる人ってなかなかいない。その数少ない人、というか僕にとって唯一のそれにあたる存在が自分の母親。
『エンドレス・ポエトリー』とか、『パリ、テキサス』のような父性に触れる映画も好きだけど、「母親の無償の愛」みたいなものにめっぽう弱い気がする。
『ボーダーライン』
映画『ボーダーライン』は、2015年に製作された、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による作品だ。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、『メッセージ』や『ブレードランナー2049』、『複製された男』などの作品も監督している。
今、アツい映画監督だ。
そんな彼が2015年に製作した『ボーダーライン』は、現実にも存在する麻薬組織「カルテル」との抗争を描いた作品だ。
「麻薬カルテル」とは、メキシコとアメリカの国境で活動している麻薬の密輸組織だ。
麻薬組織のメンバーは、一般的にいそうなギャングのような人もいれば、
汚職を働く警官もいたり
※画像はイメージ
国全体がグルになっていたりと、簡単に解決できる対立軸ではない。
この作品は、FBI捜査官のケイトが、CIAのマット・グレイヴァー率いるチームとそのパートナーであるアレハンドロとともに、麻薬カルテルの親玉であるマニュエル・ディアス逮捕に向けた捜査をしていくストーリーだ。
<現実に起きているからこその高い信憑性>
上にも書いたように、この麻薬戦争は現実に起きていることであり、そうだからこそ、緊張感は凄まじい。
捕まえた捕虜への尋問、拷問はえげつなく、目を覆いたくなる描写もある。
しかし、これらは実際に行われていても決しておかしくないのだと思わされてしまう。
<原題「Sicario」と邦題「ボーダーライン」との意味合いの違い>
邦題である「ボーダーライン」とは、アメリカとメキシコの国境線を意味していたり、
超法規的措置、つまり法律を度返しした銃撃戦や捜査の境目が曖昧になり、正義のあり方を問いかけているように思う。
一方で、原題の「Sicario」は、ポルトガル語で「殺し屋」を意味しており、この映画は殺し屋を描いたものであることが示唆づけられている。
ここから考えられることは、両者のタイトルの伝えたいメッセージが少し異なるという点だ。
「ボーダーライン」の方は、様々な思惑によって起こるあらゆる犯罪行為の横行に対する、「正義のあり方」について問いかけられているように思う。
実際に、主人公のケイトは自分の主張を否定されたり、正義を貫けなかったりと、戦場における「正しさ」の定義が揺らぐシーンが多々ある。
一方で、「Sicario」の方は、正義のあり方というより、まさに「殺し屋」をストーリーの主題であることを裏付けている。
このストーリーに登場する「殺し屋」こそが話の主題であり、こうして麻薬戦争が終わらないのも、全て恨みの連鎖によって引き起こされていることが分かるだろう。
この作品とともに、「カルテルランド」という実際の麻薬カルテルを映したドキュメンタリーも見るべき。