『15時17分、パリ行き』〜現実は小説よりも奇なり〜
『15時17分、パリ行き』は、2018年に製作された、クリントイーストウッド監督による作品だ。
「現実は小説より奇なり」
これは、秦基博の歌から拝借した言葉だ。
「現実は小説より奇なり」という言葉は、
「事実は小説よりも奇なり」という故事成語をもじったものだろう。
出典 小学館
この映画は、ヨーロッパに旅行しに来ていた幼馴染同士のアメリカ人の3人の青年が、アムステルダムからパリに向けた高速列車に乗った列車内でテロに遭遇し、そのテロリストを撃退したという、現実に起きた話だ。
それも、その演技を本人たちが実際に演じている。
きっと、この服装たちも実際に着ていたものだろう。
しかも、テロリストを撃退したのはアメリカ軍人である右二人のアレクとスペンサーなのだが、
この二人が軍人になる一つのきっかけを与えたのは左に映るアンソニーで、彼が幼少期に彼らに「サバゲー」を勧めて以来、それに3人がハマって遊んでいたという描写がある。
「小説よりも奇なり」ってこういうことなのねって感じだ。
本人たちが、実際の場所で、過去に起きた出来事をそのまま映画として撮影することで、素人の3人の演技力を見事に作品に仕上げたと言えるだろう。
さらに、テロリストに銃撃された乗客、その妻、そして3人とともに犯人撃退を助けたイギリス人乗客の人までもが本人役として登場する。
銃撃された人の演技が上手すぎて、少々思い返すと笑ってしまう。なんせ、実際に撃たれたからこそ、そこらの俳優が演じるよりも圧倒的な説得力がある。
上映時間も94分と、非常にコンパクトに仕上げられている。
起きた出来事を淡々と、かつありのままのありのままの深刻さを映したこの作品は唯一無二のものだと言っていい。
『ジム&アンディ』で考える、「自分」という概念
『ジム&アンディ』は、NETFLIXオリジナル作品で、俳優のジムキャリーの演じた映画『マン・オン・ザ・ムーン』の舞台裏とインタビューを映したドキュメンタリーだ。
ジムキャリーといえば、『イエスマン』や『マスク』など、超絶明るいコメディ映画の代名詞的存在だ。
そんな彼の最近は、完全に「悟りを開いた人」になっている。
「自我を手放す」
「『自分』は存在しないもので、概念に過ぎない」
そんな彼が、「自分」ではない完全な他人を演じきった『マン・オン・ザ・ムーン』での自分を振り返っているのがこの作品だ。
彼はアンディ・カウフマンという実在のコメディアン役で出演し、周りの演者たちは当時に実際にアンディの友人や仕事仲間が本人役として登場する。
見ていただけるとわかるが、この作品の中での彼はまさに異様なものだ。
彼は役作りの一環で、撮影外などの普段の生活でもアンディに扮して過ごす。立ち振る舞いや話し方など、常軌を逸するほどの徹底ぶりだ。
<自分という概念は存在しないということ>
この彼のアンディになりきる立ち振る舞いは、まさに自我を超越したものだ。
「自分が役として演じている」という自我を超越し、もうこの世には存在しない人間に憑依するかの如く演じる彼を見ると、ますます「自分」とは何なのかわからなくなる。
普段生活していると、見ず知らずの人たちの中で過ごす瞬間が誰もがあるだろう。一人でカフェで作業していたり、買い物している時も、周りの全員が自分の知り合いということはなかなかないはずだ。
そのような、「他人の空間の中で過ごす自分」という概念は、周囲の人も同じであり、他人にとっての自分は「他人」である。
こうしてこの世の中で、『ジブン』と定義づけたもの以外の他人に囲まれていると、「『ジブン』を定義づける意味と必要性」がわからなくなる。
もし世界から僕一人が消えていっても地球上の人のほとんどは困らないし、家族や友人が悲しむくらいだ。
<そうは言っても。。。>
ただ、そうは言っても、自分としてに生活は続くのが実際のところ。
女の子とデートしに行くのは「ジブン」だし、映画を見ているのは「ジブン」で、こうしてブログで思いをつらつら述べているのも「ジブン」なのは変わらないものだ。
ここからわかるのは、「ジブン」のためだけに生きていくのは、何の価値もないということだ。
自分が生活できているのは他人である誰かのおかげで楽しく快適に過ごせているのは事実だ。
家族や友人以外にも、コーヒーを淹れてくれる店員や、カフェの快適な空間をデザインしてくれる人のおかげで、こうしてゆったりブログを書くことができている。
当たり前のようだが、この作品を通して、「自分と他者との繋がり」の意味合いを再認識できたように思う。
僕がブログを書く理由。
映画レビューのブログを初めて、やっとなんとか10記事書くことができました。
僕の書いた文章なんて、誰が見るのとか思いながら、
2日に1本は確実に観ている映画の感想を、時間の合間を見つけてはつらつらと書いていました。
タイトルにもある通り、ブログを書く理由。なんでしょう。
僕は、人の書いたブログを読むのが好きです。
ヒデヨシさんというツイッターで見つけた人のブログが最近は好きです。
僕は名もなき映画好きの大学生であり、
めっちゃ長い間一つのスポーツに打ち込んでたりしたり、
真面目なビジネス書をめっちゃ読み込んでいたり、
実は恋愛工学生だったり、
なんかこうして自分の思いのたけをアウトプットしてみたいなと思ったんですよね。
そして書くとなると、何を書こうか迷うわけですが、時には1日何本も観ている映画のことなら書けるかなと思い、映画レビューをとりあえず書いてみました。
映画館に足を運ぶことが多いので、僕のよく行く映画館の紹介や、あまり人に知られていないようなニッチな映画館の紹介もしていこうかなと思っています。
こうしてブログを通してアウトプットする理由は、
1. 自分の思いを何らかの形にして発信したい
2. リアルの世界で僕の思いに共感してくれる人が少ない
3. 人に自分の書いた文章や思いを多くの人に見てもらいたい
とかが理由になると思います。
ここまで、この記事に何の価値も生み出せてないような気もしますが、こうして僕のブログを見てくれている人がいることに、僕はとても嬉しくて、感謝しています。
毎日1記事を目標に、映画のレビューを中心にこれからも頑張っていきます、という決意表明のようなブログでした。
『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』で感じた3つのこと。
映画『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は2014年に製作されたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督による作品だ。
イニャリトゥ監督は、レヴェナントを監督した人物でもある。
この作品は、2015年のオスカーで、作品賞・脚本賞・監督賞・撮影賞を獲得している。
この作品は、かつてヒーロー映画「バードマン」で主演を演じた男が、落ち目になっている現在から脱却しようと、「愛について語るときに我々の語ること」という題目のブロードウェイの劇を敢行するという話だ。
「バードマン」である主演のマイケル・キートンは、かつてバットマンを演じている。
今回のバードマンは、まさにキートンにとってのバットマンに他ならない。
今回はこの作品を観て感じたことを、3つにまとめて紹介したい。
1. 演者達の「老い」の演出
今回の映画では、マイケルキートン、エドワードノートン、ナオミワッツと往年の名優達が演者役として出演している。
それも3人ともが1度ヒットした元スターという位置付けで登場している。
そこで彼らの映る表情には、「老い」が見事に演出として表現されている。
キートンの薄くなった頭。
ノートンの小太りした上半身。
ナオミのしわ。
彼らの老いの姿の全てが美しく、映画の世界での彼らの存在の信憑性を高めたと思う。
2. ワンカットとCGの併用による独特の世界観の構築
『バードマン』は長回しでの撮影が有名だ。ほとんどのシーンがワンカットで撮られたように撮影、編集されている。
一方で、ワンカットのなかに、主役のリーガンが宙に浮いていたり、バードマンの超能力のような力でものを動かしているシーンなどがある。
これは、長回しによるリアリティと、CGを使ったバーチャリティとの融合によって、
現実と妄想が行き来しているというこの作品特有の世界観がこれで作り上げられたように思う。
3. 不安定で情動的なドラム音楽
作品を通して、ドラムによる音楽が用いられている。
常に不安定で、どこか強烈な力を感じさせるような音楽は、見事に主演のリーガンの心情とマッチングしていた。
その潜在的な強い情動を感じる彼の感情と、それに伴う行動と現象を、ぜひその目と耳で体感してほしい。
『羅生門』で問われるエゴイズム
映画『羅生門』は1950年に製作された黒澤明監督による作品だ。
原作は、芥川龍之介の小説『藪の中』で、それを脚色したものだ。
はじめ僕は、高校の教科書にもある芥川の『羅生門』を映画化したものだと思っており、
こんなジャケにある男前なんて登場するんだっけ、、、と思ったけどそれとは違ったようだ。
映画は、「エゴイズム」がテーマとして描かれているように思う。
上にあるジャケに映る、三船敏郎演じる盗賊の多襄丸が、侍である金沢という男を殺したとして役所に捕まり、
役所で現場で何が起きていたのかを、多襄丸と金沢の妻、そして霊として殺された金沢が登場し、3人の言い分が話される。
それを羅生門の下で現場にいた検非違使の男が、隣にいる旅法師と下人に話すストーリーだ。
ちなみに3人の言い分は全く異なるもので、何が真相かはわからない。
しかし、検非違使の杣売りはその現場を実際に見ていたので、
3人が完全に自分のエゴのために嘘をついていることを見抜いていた。
彼らが押し付け合うエゴに人間の恐怖を感じる杣売り。
でも、彼自身も金沢の妻が落とした短刀を盗んでしまっており、ますます自分を含めた人間不信に陥ってしまう。
結局、みんな自分勝手なんだってことを突きつけられます。
人間の暗黒面をこの目で見、自分で体感した彼は、近くに落ちていた赤ん坊の着ぐるみを剥がそうとする下人に怒るが、お前にそんなことを言う資格はないとけなされてしまう。
でも、検非違使の男は、決して人間はそんな小さな器でできているものじゃないと、子供を預かることに。
<人間の持つ本質的なエゴ>
誰だって、自分が一番大事だと思うの当たり前のことだと思います。
ただ、それを度返しして、誰かのために行動を起こすことって人間らしいことだと僕は思います。
群衆の中に立って 空を見れば
大切な物に気付いて 狂おしくなる
優しい歌 忘れていた 誰かの為に
小さな火をくべるよな
愛する喜びに 満ちあふれた歌(Mr.Children 優しい歌より)
黒澤明作品で度々出演していた三船敏郎と志村喬の演技が素晴らしいので、ぜひ。
検非違使が子供を預かるラストシーン
『奇跡』を観た感想。
映画『奇跡』は2011年に製作された、是枝裕和監督による作品だ。
是枝監督の「情に訴える」上手さなのか、僕がこういう家族の問題に弱いのか。。。
普通に泣いちゃうんですよね。
©2011「奇跡」制作委員会
映画は、鹿児島に住む長男の大迫航一と母であるのぞみ、福岡に住む次男の龍之介と父である健次の4人の家族のつながりを中心に描かれていく。
家族4人での生活を取り戻したいと願う、兄の航一。
一方で、福岡での生活に楽しさを感じ、今のままが続いても良いと感じる弟。
それもそのはず。
龍之介の小学校には、橋本環奈、平祐奈、内田伽羅という圧倒的な美貌を持った子達がいるからだ。しかも橋本環奈演じる早見かんなと内田伽羅演じる有吉恵美とは毎日のように遊んでいる。
正直、これは兄の航一に同情するしかない。
この映画は、航一ばかりが苦しい思いを背負って、それを彼自身でなんとか乗り越えていくという話に他ならない。
なので、航一が家族を想うシーンが出てくるたびに涙してしまう。
弟と再開しようと電車で熊本に向かうシーンで、見知らぬ4人家族がホームで会うのを横目に見る姿は、こういうシーンがくると分かっていても泣いてしまう。
是枝さんの、子役の映し方が素晴らしいんですよね。
子供達が内輪で夢を語るシーン。
それぞれの子供が語る時に接写でうつすことで、自然に出る細かな表現が見事に映し出される。
そしてここでも、完全に橋本環奈の悪女感が発揮される。
あの美貌から、口を開くたびに大人顔負けの毒を吐く姿は、圧倒的なポテンシャルしか感じない。
是枝作品はかなり網羅しているので、ぜひこの場でレビューしていきたい。
『パリ、テキサス』にて、流す涙。
映画『パリ、テキサス』は1984年に製作されたヴィム・ヴェンダース監督の作品だ。
4年前に妻子を捨てて失踪したトラヴィスという男が、弟のウォルトに助けられ、ウォルトの元に引き取られていた息子のハンターに再会し、自分の人生を取り戻していくという話だ。
テキサスの荒野を歩く、一人の男、トラヴィス。
彼が主人公だ。
美しき妻、ジェーン。そして、
息子のハンター。
この3人が中心となっている。
いや、この3人の家族の愛のストーリーだ。
トラヴィスは弟のウォルトに助けられ、ハンターに再会してから、失踪した理由とその心境を言葉少なく語っていく。
その彼の心境は、彼の言葉だけでなく、映像として残されていた、8mmフィルムの記録から見ることができる。
8mmフィルムに映る、若かりし頃のトラヴィスとジェーン。
この「8mm」のシーンが僕は大好きで、何度も泣いた。
今はもう愛し合うことができない二人。それでもこうして愛していた記憶は確かにある。
それを顔に出さずとも、表現してみせるハリーディーンスタントン。
この、ジェーンからはトラヴィスの姿が見えない状態で会話するシーン。
彼が彼女の心を傷つけないようにそっと話しかける姿に、僕は泣いた。
自分のした過ちは決して取り戻すことはできないという事実を突きつけられながらも、
それに向き合うトラヴィスとジェーン。
ロードムービーの金字塔だと言われる所以が、この作品を見ればわかるはずだ。ぜひ見て欲しい。
美しく奏でるクラシックギターとともに、目に映る彼らの記憶を、感じて欲しい。